【日常】「命は何よりも重い」を正しいと盲信する人たちへ

「命は何よりも重い」は正しいのか?

 

命は本当に最優先なのか

「命を最優先に」と言われます。これらの言葉には多くの人がそうだとしか言いようのない印象を抱きます。しかし、命というのはとても抽象的な言葉です。よく考えてみるとこれはどういうことなのでしょうか。

(中略)

よく命(生物学的な)vs何かという対比がされますが、実際のところ人は命vs生き方のバランスで生きています。だから少なくとも日常よりは危険がある旅行にリスクをとって出かけたりするわけです。命を最優先をもう少し実際に寄せて言い換えるなら、人間らしい生き方ができそれぞれが自分らしい人生を表現し社会と個人のバランスが取れる範囲での命の最優先なのではないでしょうか。

(中略)

私の考えとしては命より生き方を私たちは優先していて、ただ生きているだけでは幸福感を得られないということだと思います。もちろんほとんどの場合は命を最優先としておいて問題がないのですが、いざ大病をしたり、人生で大きな選択を迫られる時、この命を使って自分は何をしたいのかという問いと向き合わざるを得ないのではないでしょうか。

引用:為末大 note『命は何よりも重い』は本当なのか

 

 

 

上記は、先日noteで為末大氏が書いていた内容です。

 

発言の主旨だけ切り抜いたつもりだけど、逆にわかりづらくなっちゃったかもスンマソン。

リンクより文章全部読んでいただいたほうが誤解なく理解して頂けるかも。

ぜひともご一読どうぞ。

 

 

 

一言でまとめると、為末氏は、

我々は盲目的に「命が最優先だ!」と言いがちだけど、実際の私たちの生き方はそうじゃなくない?

ってことを言ってます。

 

 

 

この為末氏の意見には、自分もものすごく同意(´ー`*)

 

 

ぶっちゃけ「命は何よりも重い」って言葉は、大半の人が全肯定するものだと思います。

仮に「命は何よりも重い」って言葉を不用意に否定すると、大炎上フルボッコになるでしょう。

それぐらいに日本国民の中で当たり前に正しいとされている考え方。

「命は何よりも重い」、当たり前じゃないか!ってね。

 

 

 

でもねー、

 

じゃあ実際にそれを私達が実践してるかというと、そうでもないんですよ。

「命は何よりも重い」って言いながら、実生活は「命は何よりも重い」行動をしていなかったりする。

 

 

以下、ちょいと例を挙げてみていきましょ。

 

 

「命は何よりも重い」と言いながら、人は今日も自動車を運転している

命が大事なら車の運転はやめなければいけない

 

日本では毎日どこかで自動車による交通事故が発生しています。

死ぬまでに自分が交通事故に遭う確率ってご存じでしょうか?

 

ちょっと古いデータになりますが、年間の交通事故死傷者数と人口から計算すると、

ざっくり人生80年のうちに私達が事故に遭う確率は50%ぐらいだそうです。

近年は交通事故が減少傾向にあるので実際はもう少し低い数字に落ち着きそうですが。

それでも2~3人に1人は死ぬまでに交通事故に1度は遭ってしまうと考えると、結構な確率ですよね。

 

 

車を運転すると事故で死ぬかもしれない—。

もしくは他人の命を奪ってしまうかもしれない—。

 

 

となると、さきほどの「命は何よりも重い」という考え方に従えば、

私達は車の運転をするべきではないという理屈になります。

だって、あなたが車を運転することで、ほんの僅かながら人の命が失われる可能性があるのだから。

 

「命は何よりも重い」し、「命が最優先」なんだもの。

自動車で短時間で遠くまで行けるとか、重い物を運べるとか、そういう利便性は二の次にしないと。

ハイ、もうみんなで車乗るの禁止!

命が最優先だもの!

 

 

 

 

・・・・でも、

私達は車に乗ることを決して止めませんよね?

 

 

それは事故を起こすリスクに比べて、自動車による利便性が遥かに大きいからです。

事故を起こすという些細な確率を気にして生活を犠牲にできないからです。

これめっちゃ乱暴な言い方に換えれば、自動車の運転によって自分の命も他人の命も危険に晒すかもしれないけど、それは非常に低い確率だから無視して自分の生活の利便性を優先しますよってことになります。

酷い言い草に聞こえるかもですが、私たちはみんな当たり前にこれをやっています。

これが普通なんですよね。

 

仮にあなたが加齢などで自分の運転技術が低下してしまい、事故を起こす確率が「非常に低い」から「そこそこありうる」になってしまったときには運転を止めるのかもしれませんが。

でも、そういった事情がないうちは、運転を止めるという選択にはまず至らないんじゃないでしょうか。

 

多少の危険を冒してでも自動車の利便性を取る。

それが我々の普通の生き方なわけです。

 

祖父の1年の延命手術に、あなたは1億円払いますか?

 

自分は早くに両親とも死別していますが、まだ父方の祖父が存命です。

年齢はもう95ぐらいになるかな?

耳は遠くなってしまいましたが、頭のほうは年齢の割にしっかりとしていて。

コロナ禍でしばらく会えてないけど、たぶんまだまだ元気にしていると思います。

 

仮にですよ、あくまで仮に。

その祖父に「急性の腫瘍が見つかった!手術すれば1年延命できる!でも1億円かかる!」って事態が起きたとき、あなたは1億円払いますか?

 

 

「命は何よりも重い」というのだったら、払うべきですよね?

命を最優先だとするならお金がいくらかかろうと払うのが道徳的です。

 

 

 

 

でもごめんなさい、

自分は払えませんし、払いません(-_-;)

 

 

・・・っていうか、払う人いないんじゃないでしょうか。

誰にも聞いても同じ答えになると思います。

体裁としてひとしきり悩んだ後、結局は「払わない」を選ぶんじゃないでしょうか。

(即答はしないあたりがズルいところでもあり、マナーでもある)

 

95歳となればもう天寿を全うしたと言っていいし、1億円払って1年間だけ延命させる意義があるとも思えない。

仮に自分が1億円用意するとなれば様々な借金をしまくって都合をつけるワケだけど、

そんな借金を背負えば、自分も妻も幼い我が子も以降まともな生活を送ることはできないでしょう。

そして、そんな不幸の連鎖を祖父本人も望むわけがなく。

 

 

自分は祖父のことを愛していますが、今回のケースであればお金を払うことはしません。

 

 

仮に「命は何よりも重い」を口癖にしている人がいたとしたら、これ払うんでしょうか?

自分の生活がどうなろうが、全てを投げ打ってお金かき集めて。

命が最優先だから!って言いながら。

 

 

もしかしたら「1億円程度なら1年延命させるために自分は払うぞ!」って人がいるかもしれませんね。

じゃあ、仮に手術にかかる費用が10億円だった場合は払います?

延命できる期間がたった1ヵ月だった場合は払います?

 

・・・どんな人にも払える限界ラインがあるはず。

その時点で「命は何よりも重い」は成立しなくなります。

 

人は日常で思った以上に「命は何よりも重い」行動をしていない

 

先ほどは家族の延命措置とか重たいケースの話をしましたが。

ぶっちゃけ、私達は日常生活のありとあらゆるシーンで「命は何よりも重い」行動をしてないんですよね。

 

 

いまはコロナ禍もあって憚られますが、みなさん旅行って行きますよね。

旅行で不慣れな土地に行けば事故など思わぬトラブルに遭う可能性が高まります。

海外であれば日本に比べて治安の悪い国もあり尚更でしょう。

いきなり観光客目当ての強盗に遭遇してお腹刺されてアウトなんて可能性も、僅かながらにつきまといます。

 

レジャーもそうですよね。

登山で遭難や滑落で亡くなった、海や川で遊んで溺れて亡くなったなどの報道はしょっちゅうありますし、

雪崩、落雷、サメなど様々な自然災害に巻き込まれてしまう可能性もゼロではありません。

バーベキューでスズメバチに襲われる可能性もあるかもしれません。

 

スポーツだってそう。

野球ではボールやバットによる事故死も過去に事例がありますし、熱中症リスクもあります。

体操やスキージャンプ、スノーボードなど、命を落としてもおかしくない危険を伴う競技は数知れず。

スカイダイビングなんかも言わずもがな。

 

 

あ、そもそも外出自体がNGですよね。

これは遊びだろうが、買い物だろうが、仕事だろうが全部ね。

 

ブレーキ踏み間違えた高齢者の暴走車が不意に突っ込んでくる可能性は常にありますし、

工事現場の横を通れば鉄骨が落ちてくる可能性は常にありますし、

頭のおかしい通り魔に遭遇すれば刺される可能性もあります。

先日までの神奈川県であれば脱走したアミメニシキヘビに絞め殺される可能性もありました(捕まって本当に良かったですね)

 

 

もう例を挙げたらキリがないくらい、いろんなところに「命を失う可能性」が転がっています。

もちろん、どれもものすごい低確率ですけどね。

でも命を落としてしまう確率として、絶対にゼロではなくそこに存在しています。

 

本当に「命は何よりも重い」「命を最優先」というなら、私達は旅行も行くべきではないし、山や海や川にレジャーに行くべきではないし、スポーツもするべきではないし、そもそも外出さえするべきではない。

命が最優先なのだから、娯楽や生活を優先するのは間違いとなります。

そういうことになっちゃうんですよね。

 

あ、ちなみに友達を遊びに誘うのもダメね。

友達があなたの家に来る前に交通事故に遭う可能性が僅かながらあるのでね。

「命は何よりも重い」ので、あなたの友達と遊びたい気持ちは優先しないでください(笑)

 

 

 

でもね、いまはコロナ感染対策でいろいろ制限あったりしますが、

旅行もレジャーもスポーツも外出も、これまでみーんな普通にやってきたわけでしょ。

そこに事故やトラブルによる命のリスクがあることは承知の上で。

 

「命は何よりも重い」を前提にしたら、できることなんて何にもないんですよね。

みんなどこかでリスクに折り合いをつけて、生活を送っているんです。

 

「命は何よりも重い」という理想と、そうでない現実のギャップを理解してほしい

命の天秤

 

ここまで読んでくれた人、

 

「命は何よりも重い」って言うわりに、自動車の利便性優先して人の命を危険に晒してるじゃーん!

「命は何よりも重い」って言うわりに、家族の延命措置にお金払えないじゃーん!

「命は何よりも重い」って言うわりに、いろんなところで娯楽や生活が優先じゃーん!

 

 

こんな物言いの私に、ややムカついてきてる頃なんじゃないかと(苦笑)

わ、怒らないで!石つぶてはやめてっ!Σ(- -;;ノ)ノ

 

 

 

・・・ごめんね、マウント取りたいとか、偉そうに諭したいとか、

そういうつもりじゃないのよ。

 

 

 

ただ事実として、知ってほしいのはね、

 

 

命がとても大事なモノだということは当たり前に素晴らしい考え方なんだけれども。

それと同時に、現実生活の中でそれを実践するのは困難であり、

我々はある程度の命のリスクを仕方ないとしながら生きているということ。

 

 

知ってほしいのはこの理想と現実のギャップなんですよね。

 

 

理想は掲げているのだけれども、行動は伴えていないという現実。

「命は何よりも重い」をみんなで肯定しているにも関わらず、

実際はそれに伴った行動はされておらず、でもそれが普通の生活であることを理解してほしい。

 

「命は何よりも重い」を盲信しないで

 

そもそも「命は何よりも重い」って言葉が美化され過ぎで、妄信され過ぎなんですよね。

 

道徳の教科書ではもちろん、ドラマや映画でも、

とにかくいろんな場所で「美しい正論」として使われています。

こないだはオリンピック候補選手も使ってたしね。

 

だから、人々の間で「命は何よりも重い」という考え方は絶対正義として浸透しているし、

正しい考え方であると100%盲信してしまっている人もたくさんいます。

誰もが信じて疑わない感じになってます。

 

前述したとおり、もし下手に否定しようもんならフルボッコ大炎上です。

ひとでなし、義理人情はないのか、みたいな罵詈雑言をもらうことになるかもしれません。

 

 

 

でも自分はあえてハッキリと否定します。

 

「命は何よりも重い」とした行動は実践できない。

そして、そのことは我々自身がすでに生活の中で実証済みなんです。

 

 

 

「命は何よりも重い」は考え方として美しいです。

でもそれは、美しいけど誰も実践できない机上の空論。

実践できないのに美しい看板だけが独り歩きしているだけなんです。

 

どうか「命は何よりも重い」を盲信しないでほしい。

美しい思想に酔わないでほしい。

できないことをできると信じ、それを正義としないでほしい。

 

 

 

 

でないと、間違えてしまうから。

 

 

 

 

そのわかりやすい間違いの代表格が、昨今の自粛命令や休業命令ですよね。

 

 

「命は何よりも重い、だからあなたは〇〇を止めなさい」ってさ、

自分にさえできない机上の空論を他人に強いているわけで。

ここまで読んでくれた人であれば、これがどれだけ身勝手で、不躾で、理不尽なことなのか、理解していただけるんじゃないでしょうか。

 

 

「命は何よりも重い」に服従して人は生きていけない。

 

 

繰り返しになるけど、命がとても大切であることは当たり前の大前提。

でも、常に命の優先度がすべての事象よりも上であるとは限らない。

「命は何よりも重い」って美しい字で書かれた看板で、正義を気取って他人をぶん殴るのはやめてくれ。

 

 

世の中が少しでも正しいほうに向きますように—。

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